*白鬚橋*

SHIRAHIGEBASHI

白鬚橋を徒歩で往来する人は、よくよく急ぎの用でもないかぎり、妙なもので、一どは立ちどまって欄干にもたれて、じっと川面を見おろしている。夏のほかは涼みのためとはいえぬ。ただ何かしら、あのドロンと淀んだ橋杭の下の薄暗がりに引きつける力が潜んでいるのでもあろうか。 その朝のその瞬間にも、数名の男女が、橋の欄干にもたれて、遠く近くの水面を眺めていたが、上流に面した欄干の二、三人が、ふと妙なものを見つけた。(中略) ではその重い首がどうして水面に浮かんでいたのかというに、真上から覗いてみると、首の下に細長い、舟の形をした板切れが、水にゆがんで、ヒラヒラと見えている。つまり、福田氏の生首は、小型の舟に乗せられ、その舟は首の重みで水面下に沈んだままで、ユラリユラリと流れにしたがって漂ってきたわけだ。 見物たちの驚きはいうまでもないことである。彼らはこんな不思議な生首舟を、いまだかつて見たことも聞いたこともなかった。ワーッという一種異様などよめきが響きわたった。

「魔術師」 昭和5年7月〜昭和6年5月「講談倶楽部」(第20巻第7号〜第21巻5号)


隅田川はこの獄門舟事件の舞台となった白鬚橋の少し先、荒川と合流するあたりで直角に曲がります。
ここは勝鬨橋から始まる隅田川橋巡りのゴールラインともいえる場所になります。
江戸川乱歩も長編「魔術師」の獄門舟のシーンで、玉村宝石王の弟である福田得二郎氏が、犯人の殺人カウントダウン予告に翻弄され、ついに餌食となってしまう乱歩殺人フルコースのいわば仕上げの場面を演出します。
そして「魔術師」の事件そのものは、ゆっくりと川の流れのように東京中に広がっていきます。
浅草公園をそして隅田川を愛し、研究しつくした乱歩ならではの場の選び方のセンスが光っているといえます。




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